過去から現在までのトルコとアラブの関係

過去から現在までのトルコとアラブの関係

 

 

トルコ人とアラブ人の関係は何世紀も昔にさかのぼる。イスラム教徒のアラブ人は705年にトルコ人地域の制服を開始し、751年にはタラス河畔の戦いでトルコ人は中国人に対してアラブ勢に味方して戦った。

 

この同盟によりトルコ人とアラブ人の関係は発展した。トゥルキスタンのトルコ人の王族はイスラム教を受け入れ、そしてのちにトルコ人の人々も一斉にイスラム教を受け入れた。

 

 

アッバース朝はトルコ人で構成された部隊を創設し、これらの部隊が定住するとサマーラのような(トルコ人の)都市を建設した。

 

優れた軍事技術のため、トルコ人たちは軍内で高い地位を占めるようになった。

 

トルコ人たちはまた国家を統治する地位にも割り当てられたのだ。実際にこうすることでトルコ人たちがイスラム教を受容するきっかけとなりすべてのトルコ人が10世紀にイスラム教を受け入れたのだ。

 

 

11世紀のバグダッドに対するシーア派の侵略に対してアッバース朝のカリフはセルジューク朝のスルタン・トゥールル・ベイに助けを求めた。

 

スルタンはバグダッドに赴き、シーア派からカリフを守り、そしてカリフの娘と結婚した。

 

こうしてトルコ人が新たなイスラムのリーダーとして歴史に登場したのだ。

 

セルジューク朝は北アフリカを除く全アラブ地域を支配した。

 

セルジューク朝が崩壊の後、エジプトとアラブ地域は再度トルコ人によって支配されたのだ。

 

 

セルジューク朝の後継として、1516年からオスマン帝国がアラブ人地域の支配を始めた。

 

 

オスマン帝国の9代目のスルタンであるスルタン・セリム1世はシリアとエジプト、イェメンを支配した。

 

同じ世紀には、イラクと北アフリカがオスマン帝国の支配下に入った。

 

スルタンはイスラム世界では相当な威信を持つようになったのだ。

 

他のイスラム社会はオスマン帝国にイスラム教への奉仕について感謝したのだった。

 

 

1565年に亡くなったエジプトの学者アブダール・ワッハーブ・アル・シャラーニはオスマン帝国スルタンの宗教に対する貢献と公正さを称賛した。

 

彼はかつて、「今日ではオスマン帝国とその兵士たちがイスラムの唯一の守護者であり、誇りに思う。」と話している。

 

1731年に亡くなったダマスカス生まれの学者であるアブダール・ガーニ・アル・ナブルシもまた、コーランの105章、アル・アンビアを引き合いに出し、「正義の奉仕者は世界を受け継ぐだろう。」と言ってオスマン帝国のスルタンを称賛した。

 

1886年に亡くなったメッカのマフティー・サイード・アフメッド・アル・ダーランはオスマン帝国のイスラム教に対する奉仕のみを説明する作品をもっぱら著述した。

 

 

オスマン帝国もまた、アラブ人たちが預言者ムハンマドの部族であり、コーランが書かれた言語を話すためにアラブ人を尊敬した。

 

オスマン帝国はアラブ人たちを「Qavm najib al-Arab:高貴なアラブ族」と呼んだのだ。

 

オスマン帝国は、帝国臣民の枠を超えてアラブ人たちが地域の兄弟であることに気付いたのだった。

 

オスマン帝国はアラブ人の住む地域を植民地ではなく故郷として受け入れたのだった。

 

 

アラブ人にとって、特に評判のいいスルタンは2人いるのだ。

 

最初の一人は征服者・メフメットであり、コンスタンティノープルを征服し、「是非ともコンスタンティノープルを征服しなさい。(そうすれば)なんと素晴らしいリーダーであり、なんと素晴らしい軍隊なのだろう。」という預言者ムハンマドのハディスを実現したのだ。

 

もう一人はスルタン・アブドゥルハミド2世であり、彼は万難を排してシオニストたちにパレスティナを引き渡さなかったのだ。

 

パレスティナ問題はいつも浮彫になっているが、中東では金曜の礼拝の最中にパレスティナのことを語らない日は1日として無いのだが、スルタン・アブドゥルハミドは感謝と共にいつも思い出されているのだ。

 

 

アラブ人たちはオスマン帝国統治下で4世紀の間平和に暮らしていたのだ。

 

若いトルコ人が権力を手に入れた時も、オスマン帝国内の非トルコ人たちは誰も心配することはなかったのだ。

 

この状況が優位であるため、帝国主義者たちが国民に民族主義感情を引き起こし、アラブ人達もまた民族感情を共有したのだ。

 

統一と進歩の党はアラビア語での会話と記述を禁止した。

 

同党はアラブ人の子供たちにトルコ人の学校で学ぶことを強要した。

 

同じような悪いことが行われたことでアラブ人の民族自決の意識が育まれたのだった。

 

 

第1次世界大戦中に、シリアの統治者であり統一と進歩の党の党員であったケマル・パシャは恩赦にもかかわらず、かつて行った民族主義活動が有罪か無罪かによらずレバノンでアラブ人民族主義者を処刑した。

 

この件に関して、オスマン帝国のメッカ自治領主のフセイン・ビン・アリは中央政府に外交文書を送った。

 

統一と進歩の党はこれを反乱だと考え、軍隊を送ったのだった。

 

アラブ人たちはもう引き返せない状況となった。

 

「溺れる者は藁をもつかむ」という言葉が示すようにアラブ人たちは独立への苦闘でイギリスに救いを求めイギリスはこの状況で優位に立ったのだった。

 

自治領主(フセイン・ビン・アリ)はシリア、イラク、パレスチナ、イェメン、アラビア半島の領土での大アラブ帝国を約束された。

 

しかし、実際にはシリア、イラク、パレスチナは、秘密条約を通じてフランス、イギリスとユダヤ人たちにそれぞれ約束されたのだった。

 

 

戦争が終わると、自治領主(フセイン・ビン・アリ)への約束は守られず、彼はキプロスに追放された。

 

イラクはフセイン・ビン・アリの息子の一人であるファイサルに与えられ、ヨルダンが別の息子に与えられたのみであった。

 

アラビア半島とヒジャーズはイギリスの新たな味方であるアブドゥラジズ・イブン・サウドに与えられたのだ。

 

 

したがって、この地域のアラビア人の街すべてがイギリスとフランスの植民地になったのだ。

 

第2次大戦後にこの地域を分割して国ができた時、ここには社会主義者的な独裁者と、貧しいか、権力のない小国が残ったのだ。

 

「汚いアラブ人め、後ろから我々を撃った。」というスローガンが、トルコでは1920年代から言われ続けているのと同様に、アラブ諸国で権力を握った独裁者たちは「トルコ人はアラブを植民地にしたのだ。」と主張している。

 

論理的な人々はそのようなプロパガンダを信じてはいないが、イスラムの統合の理想はこれらの(独裁者の)政治により打撃を受けている。

 

シリアのシャマール部族のリーダーのサドゥン・ウジャイミ・パシャはオスマン帝国陸軍の勇猛な指揮官の一人である。

 

ほとんどのアラブ部族はまだオスマン帝国に忠誠を誓っているのだ。

 

今日、トルコ人とアラブ人の関係はゆっくりと正常化している。

 

エジプトの外務大臣が言った「我々はオスマン帝国が崩壊したときに数珠のように分解してしまったのだ。」という発言は極めて意義があるのだ。

 

 

トルコ人はアラブ社会で貴ばれ、尊敬されているがオスマン帝国に対する忠誠と帝国が行ったイスラム教に対する奉仕のためである。

 

エジプトとシリア、イラクにはトルコ人の母親、祖母、祖父を持つことを自慢する人が多いのだが、彼らはトルコ語を一言も知らないのだ。

 

アレッポからイェメン、モロッコ、バスラまで、オスマン帝国が崩壊した時、公務でアラブ地域に移住した人や、他の理由でアラブ地域に留まった先祖を持つトルコ人の子孫に偶然会うことがあるだろう。

 

また、アナトリアにはアラブ人を先祖にもつ人がかなりの数でいるのだ。

 

 

今日アラブ人たちは国境、パスポート、関税のない時代を慕うのだが、星と三日月をあしらったオスマン帝国の証である帽子を脱いでいるのだった。

 

フランスの覇権時代、アルジェリア人たちはお守りとして古いオスマン帝国のコインを首に身に着けていた。

 

何年も前には、スーダンの領主はトルコのために祈っていると言い、「トルコに望みがあるのだ。」と説明した。

 

ほとんどのアラブ人たちが、打ち負かされ、脅かされたアラブ世界はトルコと共に無くなり、いわば、勇者は灰の中から生まれ変わるのだと信じているのだ。

 

 

参照元メディア:www.hurriyetdailynews.com 

参照元記事URL:http://www.dailysabah.com/features/2015/11/20/turkish-arab-relations-from-past-to-today