オアスマントルコ時代の隠れユダヤ教徒たちの進化

オアスマントルコ時代の隠れユダヤ教徒たちの進化

 

 

「沈黙の重荷:サバッタイ・セウィーとオスマントルコの隠れユダヤ教徒たち‘The Burden of Silence: Sabbatai Sevi and the Evolution of Ottoman-Turkish Dönmes’」by Cengiz Şişman (Oxford University Press, 344 pages, £47)

 

 

ドンメス(Dönmes:隠れユダヤ教徒)のケースはオスマントルコの歴史上より興味をそそる裏話のひとつである。

 

17世紀にオスマン帝国では歴史上最大規模の救世主運動のひとつを目撃することになったが、それはイズミール生まれのサバッタイ・セウィーが長らく待ちわびていたユダヤ人の救世主であると自称した時であった。

 

彼の逮捕後、スルタン・メフメッド4世の前でイスラム教に改宗することで数千人の信者の数十人に衝撃を与えたのだった。

 

サバッタイの支援者たちの多くもまた改宗したが、その多くが隠れ教団として秘密裏に自分たちの(宗教の)儀式を実践し次の世紀まで続けたのだった。

 

 

the-evolution-of-ottoman-turkish-donmes_2このような血統のために、ドンメス(Dönmes:隠れユダヤ教徒)が近代トルコで最も陰謀を起こしやすい題材のひとつとなったのは驚きに値しないのだ。

 

ドンメス(Dönmes:隠れユダヤ教徒)のことを、オスマン帝国政権を弱め、帝国を世俗的なトルコ共和国に代えて終焉させるために中心的な役割を演じた世界ユダヤ民族として描いた者もいるのだ。

 

ムスタファ・ケマル(トルコ共和国建国者、初代大統領)はドンメスの中心地サロニカ(現ギリシャ)出身であり彼自身が隠れユダヤ教徒だったと主張する者さえいるのだ。

 

 

歴史家ジェンギズ・シシュマン氏による「沈黙の重荷:“The Burden of Silence”」は17世紀から今日までのドンメスの詳細な研究内容となっている。

 

他の本ではドンメスの歴史的、社会学的な成り行きに焦点を当てているが、シシュマン氏はこれらの側面を無視せず、神学的そして宗派の側面を対象として焦点を当てている。

 

時折この本はとても濃い内容となっているが、隠れ教団とオスマン帝国の近代化と崩壊についての主題は本質的に興味深いのだ。

 

 

サバッタイは17世紀中期のオスマン帝国中の都市で救世主的情熱を駆り立てた。不安を撹拌(かくはん)させた後、イズミール、サロニカ、イェルサレムを追放され、投獄後命の危険を脅かされるとイスラム教に改宗した。

 

スルタンは寛大な給与を支払い彼を宮殿の門番に任命した。1676年に「改宗した救世主」が亡くなった後、サバッタイの支持者たちは終末論的進学を発展させ、それはユダヤ教、キリスト教とイスラムの教義と儀式を混ぜ合わせたものとなった。

 

「ドンメス」として知られるようになると、彼らは3つの教団に分裂した。

 

主にオスマン帝国の田舎地域で強固に守られた社会の中で、彼らはその謎めいた(他の宗教の)複合的な独自性を以後の世紀にわたって持続させたのだった。

 

 

ドンメスの運命はサロニカ(現代ギリシャではテッサロニキ:Thessaloniki)の運命とは切っても切れないものである。

 

ドンメスの圧倒的大多数はサロニカに住んでおり、少数の有力な一族がサロニカをシシュマン氏が「ドンメ都市国家のようなもの」と記したものに変えるのに貢献した。

 

「地政学的、文化的にドンメスにとってサロニカはとてもふさわしい都市であったが、一部にはオスマン帝国の宗教的権威と政治的権威からは程遠い場所に位置したからであり、別の一部では大量のユダヤ人人口を含んでいたためである。」とシシュマン氏は書いている。

 

 

経済的にはサロニカは大いに重要であった。

 

 

ヨーロッパとの貿易を通じて、サロニカは16世紀の後にはオスマン帝国の衰退に向かわせたが、18世紀後半までに輸出量はイスタンブールとエディルネを合わせた量よりもはるかに多くなったのだ。

 

ドンメスとユダヤ人たちはサロニカでの交易と商業を支配したが、ドンメスはイスラム教として国内を通行したためオスマン帝国内では経済的機会を得る利点を占めるより良い立場であったのだった。

 

ドンメスたちは材の輸出入、とりわけタバコについて優れており、また税関職員や公務員としての政府の役職を占めていたのだった。

 

 

ドンメスたちは19世紀を通じてオスマン帝国内の改革運動でも支配的立場になったのだ。帝国内のすべての宗教社会と同様に、近代の到来により彼らは分割されたのだった。

 

革命グループに関与する者もいれば、関与しない者もおり、過去の世界の遅れた残滓として宗教を否定する者もいれば、宗教的伝統への結びつきを残す者もいた。

 

サロニカは統一と進歩委員会の「青年トルコ人派」の中心地となったが、統一と進歩委員会は陸軍士官たちの秘密結社であり、1908年にスルタン・アブドゥル・ハミット2世を廃位し、帝国に立憲制度を取り戻した。

 

シシュマン氏は「統一と進歩委員会のサロニカ支部は解放されたドンメスたちによって裏で支配されていたのだ。」と書いている。

 

青年トルコ人革命は当初は懺悔運動であったが、状況は間もなく感情的に硬化させられ独裁政権へと移行し、この政権が第1次世界大戦を通じて帝国を支配したのだ。

 

1912年にギリシャ軍が占領した時には多くのドンメスたちがサロニカに残留した。トルコ、ギリシャ双方からイスラム教徒であると考えられたため、残留者たちは1923年から24年にかけての住民交換でトルコに移住したが、その後でトルコ独立戦争が起こっている。

 

1923年にはおよそ1万5千人のドンメスがサロニカにいたが、実質的に全員が新たなトルコ共和国に移住を終えた。

 

今日では、6万から7万人のドンメスの子孫たちがトルコに居ると考えられており、およそ1万人が他国に住んでいる。

 

大多数のドンメスの子孫にとっては、過去のドンメスは家族の歴史や思い出、懐古的なものに限定され、あり神聖な意味が欠如したものとなっている。

 

まだ、いかがわしい隠れ宗教者としてのドンメスの考えは裏切者を暴くことに取りつかれているトルコの宗教的な民族主義者たちにとっては非常に魅力的なのだ。

 

こだわりのある多くの(ドンメスの)敵対者たちの間では、ドンメスのことを言及することは最近では希なこととなっている。

 

 

参照元メディア:www.hurriyetdailynews.com 

参照元記事URL:http://www.hurriyetdailynews.com/the-evolution-of-ottoman-turkish-donmes.aspx?pageID=238&nID=91040&NewsCatID=474