デウシルメシステム:非イスラム教徒の国家の頂点へ登るはしご

デウシルメシステム

 

 

デウシルメ制度は15世紀に始まったが、非イスラムの臣民の子供(息子)の採用が許され、行政サービスに就かせて訓練する制度である。

 

この制度により、多くの重要な地位の政治家や、軍の士官と同様に64人の大宰相を教育して生み出した。この制度は、イスラム教徒の家系の子供が含まれるようになったために機能しなくなり始めた1633年まで続いた。

 

デウシルメシステム

デウシルメシステム

 

個々人の能力に従い、デウシルメの有能な子供たちは、政治家やオスマン帝国軍のエリート部隊であるイエニチェリやスルタンの親衛隊として訓練された。

 

 

オスマン帝国世界で梯子を上り詰める唯一の基準は能力だった。人種や宗教にかかわらず、才能ある若者には輝かしい未来があったのだ。

 

デウシルメと呼ばれた制度は6世紀にわたって帝国の足元を固めた根本のひとつであったのだ。

 

 

オスマン帝国草創期には、政治家は昔ながらのマドラサ(神学校)の卒業生の中から選抜されたが、マドラサはイスラム世界全土で運営されていた。当時帝国は膨張しており、帝国にはより政治的な経験を積んだ政治家が必要とされていた。

 

 

帝国は独自の統治者の訓練を始めた。宗教界と法曹界ではマドラサの卒業生によってその地位を占められ続けたが、反対にマイナーな公務員は、徒弟関係によって各政治部署で訓練されたのだ。

 

 

帝国の高官は1種の宮廷内私塾であるエンデルン学校で訓練を受けたが、エンデレン学校は、オスマン帝国スルタンの私的な事柄が取り扱われた行政事務所と高官たちが教育を受ける学校で構成されていた。

 

 

初期には戦争捕虜の中で約束された将来を有する者たちが能力に応じて政治家やイェニチェリ(専門の兵士)として訓練され、イスラム-オスマン文化と共に発展していった。

 

デウレシメ制度は15世紀に登場したが、非イスラム教徒のオスマン臣民の息子たちが採用され、イスラム教に改宗させられ、訓練のために政治部署に配属された。

 

 

8歳から15歳までのこれらの子供たちが様々な試験の後に人相学に精通した公務員によって選抜されたが、選抜は子供たちの能力、礼儀作法、外見が基本とされた。

 

 

イスラム社会からデウレシメに採用される子供は皆無だったが、理由は支配階級に属しているため他人を虐げる恐れがあったためである。

 

さらに、デウレシメにはユダヤ人、アルメニア人社会からも採用されることはなかった。デスレシメとして各都市の40世帯から一人が選抜された。男子が一人の家庭からは選抜はされず、子供を選抜に差し出した家庭は税を払う必要がなかった。

 

極希に子供を差し出すのを好まぬ人もいたのだが、彼らは様々な方法で説得された。また、希にデウレシメとして採用された子供の中には逃亡する子もいた。

 

したがって、村に留まればせいぜい司祭にしかならない子供たちが大宰相になる機会を与えられたのだ。事実として、バルカン半島の寒村で生きる子供たちにとってはデウレシメに採用されることは救いであったのだ。

 

 

支配者メフメト(メフメト2世)から始まったデウレシメ制度だが、行政の分野で好まれたのだ。彼らはスルタンの召使いとして、デウレシメ制度はとても有益なものであったのだ。

 

 

この制度で培われた人たちはあらゆる家庭から採用されて中立な官僚や軍人となったが、公とは血縁や地元のつながりがなかったがスルタンにのみ忠誠を誓ったのだ。

 

非イスラム教徒が住む地域ではデウレシメ制度は役に立ち、より遵法的となったのだ。このような地域に住むことで、武器を持つことができる若者たちは帝国の僕となった。

 

実際のところ、これらの地域はデウレシメ制度が廃止されると次から次に独立戦争を始めたのだ。

 

 

デウレシメ制度でその特性に適さないとされた子供たちは労働者として軍事工廠に送られた。

 

 

他にはトルコ語とイスラム教を学ぶためにイスラム教徒の農場に派遣されるものもいたのだ。

 

後に彼らはイスタンブールとエディルネにある「Acemi Oğlanlar Mektebi:初等少年学校」に派遣された。

 

 

彼らの中で器量の良いものは初等学校で成功し、宮廷内の学校であるエンデルンに連れていかれたのだ。

 

それに対して、屈強な若者たちは、海岸沿いと同様宮廷内の治安責任のある「Bostancı Ocağı:ボスタンジュ・オジャーウ」かイェニチェリに送られた。

 

エンデルンでは合計64名が大宰相として訓練されたが、すべてのオスマン帝国の政治家がこのエリート学園を卒業したわけではないのだ。

 

極希にデウレシメの生徒たちは自分の家族に会うことができた。

 

クロアチア人のソクル・メフメトパシャは、学校卒業後すぐにボスニアで家族に会ったのだ。彼は自分の兄弟と従兄をエンデルンに入学させ、ついには彼の両親がイスタンブールにやって来てイスラム教に改宗したのだ。

 

 

司祭となったただ一人の弟だけが彼の故郷であるソコルに残った。ほとんどすべてのデウレシメの生徒たちは自分たちのオスマン帝国でイスラム教徒になったというアイデンティティーを持って生き、忠誠心の強さと慈善心によって自分たちを区別したのだ。

 

 

1633年の後には、デウレシメ制度はうまくいかなくなった。熱心に勉学に励みたいというイスラム教徒の家系の子供たちがエンデルン学校に採用されたのだ。デウレシメ制度は1826年にイェニチェリが廃止されるまで存続した。

 

信仰や人種にかかわらず、能力と少しの運が優先され、臣民の才能を活用したこの制度は6世紀にもわたって帝国の根底を支えた原則のひとつとして歴史家が認識している。

 

 

宮廷学校では、生徒たちは真面目な教育と確固たる規律により14年間訓練されたのだ。

 

 

すべての生徒が無償で教育を受けたが、日の出前に起床し、入浴し、スルタンと共に朝の礼拝をおこなった後、朝食を済ませるとすぐに勉学を開始した。

 

教官は宮廷の一員が担ったが、有名な学者も教官として派遣された。宗教学のほかに、詩作、音楽、幾何学、地理、歴史、論理学、文学、哲学が教えられた。

 

午後には高級将校によってスポーツの授業が行われた。スポーツの授業の後に自由時間があった。夜の礼拝後には生徒たちはすぐに就寝した。

 

スポーツ競技会はよく行われたが、学校内には「Bamyalar:オクラ」と「Lahanalar:キャベツ」という2つのスポーツクラブがあり、スルタンはよく試合を観戦したのだった。

 

 

生徒たちは時々狩猟動物の保護、スルタンの衣服、武器、地下室の警護、財宝や聖遺物の監視など宮廷内任務に就いた。

 

それとは逆に、生徒たちは世界をおさめる場所での実習に就くこともあった。

 

すべての生徒が趣味を持っており、芸術に興味があった。生徒たちは友人に付けてもらったニックネームで生涯呼ばれ、卒業するまでは結婚しなかったのだ。

 

 

学校を終えると、公務に派遣され、スルタンのハーレムにいる女性の一人と婚約させられた。

 

これらの生徒たちは自分の持つ卓越した実力のおかげで任務を完ぺきにこなし、宮廷内で受けた謙虚さを妻と共に公に伝えるのだった。

 

 

宮廷からイスタンブール市内にその人の持つ礼儀と謙虚さが漏れ伝わるとオスマン帝国全土に伝わると言われている。

 

エンデルン学校の生徒たちとスルタンのハーレムの女性たちは人々の羨望の的であったのだ。

 

これはオスマン帝国での成功秘話のひとつだが、帝国は下層階級人ではなく、エリートによって運営されたが、これらのエリートは金と血脈でエリートになったわけではないのだ。

 

彼らは公の模範となるべき真のエリートであったのだ。

 

 

エンデルン制度はスルタンがトプカプ宮殿を離れると重要性を失った。

 

エンデルン制度が亡くなるとその溝を埋めるために政治科学院が設立された。

 

スルタン・マフムード2世は古きオスマン伝統とヨーロッパの宮殿を統合し、新たな宮廷組織を設立したのだった。