アティク・ワリデ・モスク:ヌルバン・スルタン専用の建築物の傑作

アティク・ワリデ・モスク

 

 

イスタンブール周辺には、歴史を通じて権力を握った女性たちがスポンサーとなった多くの歴史的遺産があるが、最もよく知られているものは、スルタンの娘と妻によるものだ。
それらの遺産のひとつが、アティク・ワリデ・モスクと複合施設であり、歴史的なユスキュダル地区にあるが、オスマン帝国時代の有名な建築家ミマール・シナンによって建設され、建築物の傑作として現在に残っている。

 

 

イスタンブールは、女性スルタンの都市として定義されているが、それは都市の至る所で女性の優雅さに触れることができるからなのだ。
イスタンブールでは、町中いたるところにある歴史的な傑作を見ることを、権力を持った女性たちの歴史の時代の消せない痕跡を容易に見つけることができるのだ。

 

特にユスキュダル地区は、オスマン帝国のハレムの格調高い女性たちによって建てられた多くの遺産があるが、これらの遺産には、ミヒリア・スルタン・モスク、エメトゥラー・ラビア・ギュルヌシュ・モスク(イェニ・ワリデ・ジャーミィ)、ヌルバン・スルタン・モスク(アティク・ワリデ・モスク)、マフペイケル・スルタン・モスク(ジニリ・ジャーミィ)、ギュルフェム・ハタン・マスジードなど彼女たちの名が冠せられているのだ。

 

 

女性スルタンたちは一般的に個人的な富に恵まれており、帝国中に噴水やモスク、病院、公衆食堂、学校、用水路、橋梁、孤児院、公衆浴場、鳥園を作ったり、近隣の地域の徴税資金、花嫁の持参金を用意することができたのだ。

 

 

特にワリデ・ススラン(皇太后)、カドゥネフェンディー(スルタンの正妻)や、スルタンの娘たちは、寄進・寄贈や個人資金の援助などが際立っているが、善い行いをすることでお互いに張り合っていたのだった。

 

女性スルタンの中で善行のために富を恵んだ者としてよく知られているのは、ハセキ・ヒュッレム・スルタン、ミヒリマ・スルタン、ベズムーイ・アレム・ワリデ・スルタン、マフペイケル・キョセム・スルタン、ハティス・トゥルハン・スルタン、ラビア・ギュルヌス・スルタン、そしてヌルバン・スルタンである。

 

 

ヌルバン・ワリデ・スルタンは、おそらく帝国で最も熱心に寄付を行ったのだが、オスマン帝国に歴史で際立っており、また、オスマン帝国史上元も権力を持った女性の一人でもあったのだ。
彼女はスルタン・セリム2世の妻であり、ムラト3世の母としてワリデ・スルタン(母后)となった。

 

彼女は奴隷から初めてワリデ・スルタンになった人物であり、彼女の出自に関しては異なる2つの説があるのだ。

 

 

彼女はもともとは、セシリア・ヴァニエル・バッフォという名のヴェネチア人であるという説と、ラッチェル・オリビア・デ・ナスィというスペイン系ユダヤ人であったという説がある。
彼女がオスマン帝国海軍に捕えられ、奴隷としてトプカプ宮殿に連れてこられた時は12歳前後であった。

 

彼女は改宗させられ、ハレムで育った。
一説には、シュレイマン・壮麗帝の妻であるハセキ・ヒュッレム・スルタンが彼女の美しさと聡明さにちなんで輝いているという意味の「アフィフェ・ヌルバヌ」を名付けたのだと言われている。
彼女がワリデ・スルタンになった時、ミマール・シナンにイスタンブールのユスキュダル地区でのアヒク・ワリデ・スルタン・モスクと複合施設の建設を命じたのだ。

 

 

他のすべてのモスクと同じように、このモスクにもある物語があるが、次のように人々に言い伝えられている。

 

ヌルバン・スルタンは敬虔で篤実な信者として尊敬され、よく知られているが、無駄遣いすることをおおいに気にしており、このため毎度食事の後にパンくずを掌に集めては食べたと言われる。
彼女の義理の娘であるサフィエ・スルタンはこの行為を奇妙に感じ、不相応であると考えた。

 

サフィエ・スルタンは義理の母親のこの習慣について夫であるスルタン・ムラト3世に不満を漏らした。
ある日、彼らが一緒に夕食を食べているとき、いつものようにヌルバン・スルタンはパンくずを集めて食べようとしたとき、息子であるスルタン・ムラト3世は掌に何を集めているのかと母親に尋ねた。

 

 

ヌルバン・スルタンは沈黙のままであり、スルタン・ムラト3世はさらに強く尋ねたのだ。

最後には、母親が掌を開き、ムラト3世にパンくずを見せると、彼は自分の目を信じることができなかった。

 

パンくずはすべて光り輝く真珠に変わり、ムラト3世はその瞬間事態を理解し、詰問したことを詫びて、母親の祝福を願った。

 

ヌルバン・スルタンのスカーフが風で飛ばされると、ヌルバン・スルタンは、息子に、すかーづが落ちた場所にクーリイェ(複合施設)を立てるようお願いしたのだ。
ユスキュダルにある丘の頂上でススカーフは見つかり、ミマール・シナンは「ヌルバン・ワリデ・スルタン」と名付けられる優雅な複合施設建設計画をすぐに始めたのだ。

 

 

このオスマン帝国時代の複合施設は、イスタンブールで、その大きさという点で最も素晴らしいと考えられている。

 

ミマール・シナンは当時は既に老齢であったが、1577年にヌルバン・ワリデ・スルタンの援助の下建設が始まったのだ。
そして1583年、ヌルバン・ワリデ・スルタンの崩御と同じ年に複合施設は完成したのだ。

 

この複合施設は18世紀から「ワリデ・モスク」と呼ばれているが、それに先立っては、前の母后を意味する「エスキ・ワリデ、ワイデーイ・アティク」とか「アティク・ワリデ」と呼ばれ始めたのだが、それはユスキュダルのイスケレ中央広場に建立された複合施設と区別するために、在位1708年から1710年のスルタン・アフメッド1世の母であるエメトゥラー・ギュルヌシュ・ラビア・スルタンにより「イェニ・ワリデ」とか「ワリデーイ・ジェディド:新たな母后」と呼ばれたのだ。

 

この複合施設は中央に位置するモスクと中庭を共有してモスクに並列に立つ神学校と同じ通りのモスクの左側にある修行僧宿舎と、大学、イマレット(調理場)、隊商宿、印刷所、コーラン朗読者学校、トルコ式浴場、総合病院として設計されたダルシッファで構成されている。

 

ダルシッファが負担する治療費はヌルバン・スルタンの領土の収益から賄われていた。

 

 

複合施設の建物群は頑丈に長く伸びた地面に並んで広がっており、正面の通りはますぐに伸びている。
今日では、モスクとトルコ式浴場だけが、建設当初の目的と同じ役割を果たしている。

 

施設の残りの建物群は、牢獄として使用されてきたことにより、各建物の特異性は失われているのだ。現在では、牢獄として使われた施設はファティー・スルタン・大学により改装されている。

 

複合施設は当初は建築家シナンによって完成されたが、6角形の中心部を構成していた。
両側に2つのドームを加えて拡張されたが、シナンが高齢のため、彼のアシスタントのダウート・アグハによって拡張工事が行われた。

 

 

モスクの最後の改装は1834年にスルタン・マフムード2世の時代に行われ、人々が集まる場所として独立した玄関を持つ東屋がモスクの南東部に建てられたのだ。

 

 

この複合施設はドームの設計者である偉大な建築家シナンとの別離とみなされており、多くの傑作と共に16世紀のオスマン建築を形作ったのだ。

 

 

彼は並外れた才能を遺憾なく発揮し、真珠を使って装飾したアティク・ワリデ・モスクの食器棚や、大理石を使ったミフラブ(メッカの方角を示す窪み)、説教演壇、陶芸器など16世紀の建築学上の教訓を与えたのだった。

 

 

アティク・ワリデモスクのカドゥンラー・マフフィリ(女性のための個人のお祈りの場所)は他のモスクのマフフィリの中で最も美しいと言える。

 

この美しいモスクに関する他の特筆すべきものは、1722年に2つのミナレット(尖塔)の間に、初めてのマヒヤ(窓明かりで描かれるメッセージ)があることだ。

 

 

モスクの中庭には、真ん中にシャディルワン(中庭の泉)があり人々が集まるには完璧な場所であり、シャディルワンは大理石の柱で完璧に設計されている。

 

オスマンの伝統として、モスクが最初に建てられた時に植えられたプラタナスの木が2本ある。
樹齢2百年のこれらのプラタナスの木々は、夏場には天然のエアコンと同じ機能を果たしている。

 

もちろん、中東で一番古いレバノン杉についても触れねばならないが、この木は現在改修された隊商宿の真ん中にあるのだ。

 

 

聖なるラマダン月には、イスタンブールの人々はエユップ・スルタン・モスク、シュンブル・エフェンディ、アジズ・マフムート・ヒュダーイ・ハズレトレリモスク、ヒルカーイ・シェリフモスクを訪れるのだが、テラウィーのお祈りをラマダン期間中の毎夜にそれぞれ異なるモスクで行うことを好む人もいるのだ。

 

これらは聖なる月の期間中の伝統となっているが、ハルク・ドゥルスン教授の「イスタンブールでの生活美」という本を読んだとき、ヌルバン・ワリデ・スルタン・複合施設を訪れようと考えたのだ。

 

ラマダン期間中にドゥルスン教授教授のおススメに従ってアティク・ワリデ・モスクを訪れたが、これはもう習慣となっている。
何年もの間、イフタール(ラマダンの夕食会)前いキュリイェ・アティク・ワリデを訪れ、この野外博物館を楽しんでいるのだ。

 

 

私は夏場にヌルバン・アティク・ワリデ複合施設を訪れることを強くおススメする。

 

古いプラタナスの木の下のベンチに座ってお茶を飲んだり、シナノ木の香りや風に優しく当たるそよ風を楽しんでほしい。

 

複合施設の周りを散歩すると、イスタンブールの歴史を吸い込むような気持になり、偉大なるシナンが以前建築したモスクを訪れたことがなかったように感じることを保証します。

 

この施設が彼の最後の傑作作品であるため、ここは彼との決別の場所なのだ。