オスマン朝一族の国外追放:無情の物語

オスマン朝一族の国外追放

 

 

1924年3月3日、新制トルコ共和国のリーダーたちはオスマン帝国の王室一族に対して国外追放を命じた。これは単なる国外追放を意味したのではなく、異世界での厳しい生活条件を含む旅の始まりでもあったのだ。

 

 オスマン帝国のスルタン・カリフ制が廃止された時、156人が王室一族に属していたが、1924年3月3日に施行された法律によりトルコ人としての国籍を否定され3日以内に国外追放となった。

 

 

 両親や子供たちと共に追放された人々、法律を適用されなかった人々や、主人の元から離れるのを嫌った家来など追放された人数は100名にも達したのだった。

 

 法律により、彼らはトランジットでのトルコ国内通過でさえも禁じされたのだ。彼らはまた、1年以内で所有財産を清算するよう強いられ、さもないと条約により財産を接収されるのだった。

 

 スルタンメフメド6世は早期に国外追放され、法律が執行される前にもかかわらずスルタンアブデュルメジド2世と彼の家族は24時間で追放され、国民のデモを恐れた関係者によりシルケジ駅ではなくチャタルジャ駅で汽車に搭乗したのだった。

 

 

 オスマン帝国とイスラムの伝統により女性が国を治めることを禁じられていたのだが、オスマン帝国王室の女性と子供たち、また王室家族の新郎、新婦であっても追放されたのだ。

 

 革命により転覆したヨーロッパのどの王朝もこのような仕打ちを受けたことはなく、絶対君主のみ追放された例はあるが、彼らの所有財産は短期間ののちに彼らに返還されている。

 

 ロシア帝国の皇帝と皇后は子供たちと一緒に虐殺されたことがあるが、皇帝側の白軍が皇帝と彼の家族を救出しようとしたことが理由であった。

 

 

 オスマン帝国王室一族は2度と戻ることはできない片道切符のパスポートを渡されたのだ。

彼らはかつてオスマン帝国領内の国のひとつでもあったエジプトに行くことを望んだが、当時エジプトを統治していた英国だけでなくオスマン帝国に嫉妬していたファッド王も定住を許さなかった。

 

 王室一族が祖国に近いシリアに行きたいと望むと、新たに建国されたトルコ共和国により妨げらられたのだった。王室一族の中にはフランス統治下のベイルートに定住するものもいたが、残りはヨーロッパ中に散っていったのだ。トルコにある彼らの宮殿は王室一族が離れる前でさえも警察の監視下に置かれていた。

 

 王室一族の中には自宅や骨董品、価値ある美術品をただ同然で売ったり、信用する者に財産を預けるものもいた。
信用する者の中には、王室一族を裏切り、国家による残留資産没収の際に王室一族の資産、財産を奪うものもおり、王室一族が代々受け継いできた相続権は無効となった。

 

 こうして、長い間見ることのなかったこのような酷い行為がオスマン帝国創始者オスマンに相応しいとされたのだ。
伝説によれば世界で最も古い王朝のひとつとされるオグズ・カガンまで遡ると言われるオスマン王室一族は政治の舞台からの退場を強いられたのだった。

 

 オスマン王室一族の人々は自分たちに起きていることを信じることができなかった。国外追放の前夜にスルタン制度廃止の噂を聞いても国民はまだ王室を愛し、敬意を払うと思っていたのだが国民はそのようなことを思ってもいなかったのだ。

 

 

 実際に追放されると、オスマン王室一族はこれは一時的な追放に過ぎないと考えた。

事実として、一族の大多数の人々は数か月で家に戻るだろうと思ったため、全財産を持ってきたわけではなかった。

 

 しかし、国外追放処分は女性については30年間、男性については50年間続いたのだった。
王室一族のようなに今まで慈善事業に寄付する側に慣れているような人々は銀行に預金もなく現金も持ち合わせてはいなかった。トルコ共和国から追放された時、彼らは各家族ごとに1000リラを与えられたのだが、旅費と当面1か月の生活しか賄うことができなかったのだ。
宝石類を安い値で売り払った後は、どん底の生活に落ちぶれたのだ。

 

 王室一族の中にはホテルで皿洗いをした人もいたし、物乞いをしたり、ごみ箱から食べるものを探した人もいたという。
中にはヨーロッパに逃げたオスマン帝国のアルメニア人から援助を受ける人もいたが、餓死する人もいたのだ。

 

 現在のインドにあるハイデラバードの支配者オスマン・アリ・カーンやアシャフ・ジャー7世、エジプト王子オメル・トスン、ヘジャーズ王フセイン・イブン・アリのようなイスラム貴族たちはこの落ちぶれた王朝のメンバーを財政的に援助しようと努力したが、王室一族は世界中に散っていたため援助の手が届くことはなかった。

 

 さらに、アンカラ政府は王室一族と外国人との結婚については反対し、国外追放後の彼らの足取りについて監視したのだ。
結局、フランス政府はフランス王フランソワ1世を救った偉大なシュレイマン大帝の子孫が国籍を取得することを許すことはなかったのだが、自由に旅ができるようにパスポートは発給したのだった。

 

 オスマン王室一族の人々はホームシックに加えて、貧困や病気に直面し、不公正の痛みに耐えねばならなかった。
オスマン王室一族の中で名もなき墓に葬られた人は幸運で、オスマン王室一族の中には死体が無くなるか、海に捨てられた人もいたのだ。

 

 しかし、彼らはみな威厳と名誉を持って生きたのだ。彼らは自分が経験した仕打ちに傷つけられたが、祖国を裏切ることはなかった。
1952年、オスマン王室一族の女性はアドナン・メンドレス率いる政府から恩赦を受け、また1974年に発行された大赦により、王妃たちは祖国への帰還を許されたのだ。

 

 オスマン宮廷の作法を知る人々が死ぬまでオスマン王室一族に恩赦を与えるのをまっていたのかどうかにかかわらず、それは仕方のないことだった。

 

 明らかにトルコ共和国はいまだにこれらの悲劇を味わった人々を恐れている。
大赦が実行に移された時、ごく少数の人しかトルコに戻らなかったのだ。当時若かった人々は亡命して外国に落ち着き、新たに家庭を築いたのだった。帰国した人々はすぐにはトルコ国籍は与えられず、しばらくの間は警察の捜査官に尾行されたのだった。

 

 シュレイマン・シャーの墓について大いに気になる人は、彼の子孫の現状をよく見るとよい。
オスマン帝国とイスラムの歴史の中で勝利を勝ち取った王朝の子孫たちは、彼ら独自の言語を話すことや彼らの宗教を習うこと、自分の先祖の国で息をすることを禁じられ、新たな祖国で死んだのだ。

 

 今日オスマン王室一族は民衆からは決して良いとは思われておらず誰も興味を持っていない。
王室一族には恩赦が与えられているが、彼らの多くは亡命先で生まれ新たな祖国で自分たちの生活を確立している。

 

 現状を考えると、国外追放は現在も続いており、トルコ人やこの国に住む人にとってこれは恥ずべきことなのだ。
過去に行われた民衆、家族、国家による残虐行為が全く償われないければ、どんなに善行を行っても意味がないのだ。国家が過去に引き起こされた不公正を償わないのであれば、その国の未来は明るいとは言えないのだ。

 

 

 ようやく国家によって没収された資産の返還の兆しが見られるようになった。
さらに、オスマン王室一族の所有物が安全に返還されるまでは、オスマン王室一族のすべての人々がトルコでの衣食住を賄うために毎月決まった金額を彼らに支払いことは国家の債務であるのだ。

 

 この使命を実現するための財団が設立されるべきで、援助が必要な人を手助けできるように国家がこの財団を援助すべきなのだ。
そうすることで、オスマン王室一族の新らしい世代の方々は帰国し、トルコイスラム文化の生活のなかで新しい家庭を築くだろうし、年長の方々は祖国で平穏に残りの人生を過ごすことができるだろう。

 

彼らが亡くなる時には、彼らの一族の栄光に相応しい葬儀を行い、墓地に安置されるべきなのだ。

 

 

参照元メディア:www.dailysabah.com 
参照元記事URL:http://www.dailysabah.com/features/2015/03/13/the-bitter-story-of-the-ottoman-dynastys-exile